会長のブログ

会長のブログ

  • 16.07.22 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第十一章 仕事と人生は矛盾しない】

     始めた惣菜の仕事が何年も赤字。そんな中で、ときどき私を勇気づけてくれたのは「商業界」「食品商業」といった一連の商業界から出版されている月刊誌だった。結果の出ない事業に対して、自分で自分を奮い起こさないとしぼんでしまいそうだったから、エネルギーをもらいたくてよく読んだ。
    ある日「寛治。商業界の雑誌にはいい事が書いてある。俺は箱根のセミナーに行ってみることにしたよ。」突然、父がそう言いだした。これには驚いた。何と父が私の読んでいる商業界の月刊誌を盗み読みしていたのだ。その当時毎年一月、商業会主催のセミナーが箱根小涌園で開かれ、流通革命の熱意に燃える人たちが集い勉強していた。
    自分も人生の大転換の出来事だった。お坊ちゃん育ちだと思い込んでいた父がこの一大困難の最中、惣菜事業の先行きをもう一度考え直してみたいというのだ。自分も反省しなければと思いました。しかし、朝から晩まで休みなく働き続ける毎日でとてもそんなゆとりはない。そしてお正月が過ぎ、新年のセミナーから帰った父の口から出た言葉「寛治。仕事は人生と矛盾しないということが分かった。」と言い切ったのです。「この人たちはいい人たちだ。目的意識、使命感をはっきりと持っていなければ、人生はさびしいものだ。」すぐに、知り合った先生の所へ勉強に行かないかと私を名古屋へ連れて行った。そこでつくづく感じたことは自分の無力さだった。父の純粋さに対する劣等意識も強かった。もっと勉強しなければならない。名古屋での先生のご指摘は誠に厳しかった。自分のことも深く考えていない、ましてや、仲間のこと、社会のこと、私たちが果たさなければならない役割・使命のこと、さらには将来の展望、全く考えていないと痛感した。この挫折感は強烈だった。「惣菜を事業にしようと志すのであれば、私自身がもっと自分を磨かなければならない。」


    ・・・次章へつづく。

  • 15.12.24 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第十章 惣菜は事業になるのか】

    それから先、父も母も大変な苦労を背負ってくれた。毎朝4:00からの惣菜製造。果たせるかなイトーヨーカドー富士店の和惣菜売り場は、良く売れた。店員さんもとても喜んでくださいました。でも、利益などおぼつかない。何とか会社がつぶれずに持ったのは、父母のおかげである。なぜなら、1958年ごろ本格挑戦が始まった「煮豆真空包装」が10年以上の努力の後、柱の商品として育ち、69年ごろから90年までの苦難の時代を支えていたからである。
    結局、ユニデリの設立に至る1989年まで、惣菜の事業はズーット赤字だった。そのつなぎ目に「塩ゆで落花生」のヒットが有り、わかめ製品のミニヒットが有り、少しの収益も上がり、1985年の吉田町川尻の用地購入の背景となっていった。
    煮豆の収益に支えられながら、惣菜の努力は営々と続いた。ジャスコやニチイのスーパーの惣菜コーナーの経営も任されてやった。
    78年セブンイレブン静岡一号店進出。「店と工場を回線で結ぶ。」との考え方に感じるところが有り、お取引をお願いした。その時、サラダの製造を開始。ポテトサラダを1キロから作り始めたのを覚えている。
    その後セブンイレブンは不調で店は全然増えない。どうしてよいかわからない。
    焼鳥屋もやった。餃子もやった。米飯もすしもやった。天ぷらフライもやった。目くらめっぽうだった。何をしたら良いかわからないので全部やったというのが本当のところだ。だから何をやっても赤字。勿論セブンイレブンとの取引に至っては1978年から1990年までの12年間赤字が続いた。それもこれも煮豆の収益のおかげで飲み込みつぶれずに済みました。


    ・・・次章へつづく。

  • 15.12.03 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第九章 料理を商品にする】

    「息子は、スーパーの売り込みをやりたいらしい。」父は、心配してくれて「富士の駅前にイト-ヨーカドーというスーパーが出てくる。これからでも遅くないので、息子さんが売り込みに行ってみたらどうかと、テナントビルオーナーである富士農協の幹部がアドバイスしてくれた。寛治行ってごらんよ。」と言ってくれた。76年5月の話だった。私は、早速煮豆を包装して、イトーヨーカドーの本部へ行った。そこで初めて「料理を商品にする。」という言葉に出会う。
    三番町にあったイトーヨーカドーの本部は小さなビルで、東証2部上場を果たした後、1部に上場なるかと言われていた当時で、若々しい私とそれほど年の変わらない川西さんという方が相手をしてくれた。サンプルを見て「煮豆は沢山売りに来る人がいますよ。それより我が社に穴沢さんという食品本部長がいて、その方から『料理を商品にするという仕事の仲間になりそうな人を探せ』と言われている。それを考えるつもりは有るか。」と聞かれた。私は、考えるところがあった。これは、とても深い意味のことを言っているのかもしれないと思った。

    商品にする ⇒ お金で買えるようにする ⇒ 社会分業にする

    そうだ、料理は、社会分業になる。早速家に帰って父に言った。「お父さん、イトーヨーカドーは惣菜の仕事をやってほしいようだよ。すぐにサンプルを作って持っていくから。」父も賛成してくれた。「やってみよう。」
    すぐに考えたことは、聞くと面倒そうで、作ると割と簡単というメニュだ。何品か作って見本にもっていこう。これからは母の活躍だ。一週間後20品目位のサンプルを持ってもう一度イトーヨーカドーを訪問する。約束も何もせずに来たから川西さんはいなかった。とりあえず、「川西さんと穴沢さんに食べて欲しい。」と言い残し、見本を置いてきた。ところが蒲原へ戻るまでの間にもう電話があった。父が「寛治、イトーヨーカドーの川西さんから電話が有って、あれでいいから早く納品開始してもらいたいと言っていたよ。」
    これが大きな契機となった。ついに1976年7月から総菜の仕事を始めた。毎日4:00起きの早朝作業が始まる。



    ・・・次章へつづく。(第十章は、12月24日更新予定!)

  • 15.11.12 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第八章 何をして良いかわからない】

    1975年1月、日綿実業株式会社を退職、静岡に戻った。売ればいいのだ。営業するのが大事だ。それはわかっていた。でも何をして良いかわからない。その時の株式会社ヤマザキは従業員総数11名だった。とにかく売るしかないのだ。
    そんな時、幸せにも75年10月21日、妻「洋子」と結婚。翌年長女『多恵子』、翌々年に長男『朝彦』が生まれた。その後、二男、二女の6人家族になりました。私は、とにかくわけもわからず、スーパーの時代が来ると思った。清水の駅前にできた西友ストアの地下で、煮豆を量り売りしたこともある。4億円の小切手を日綿実業株式会社時代には受け取っていたのに、100円いただくためにこんなに頭を下げなければならないなんて。世間の解らない人間だった私は、売れなかった日の帰り道、情けなく涙を流してしまったこともある。どこかで、仕事にはっきりとした目的や使命感を持たなければ、自分がすさんでしまうと考え始めていた。
    1975年静岡に帰って半年ほどして、ある人に教えられ「商業界」という雑誌を購読するようになり、大きく流通が変わろうとしていることを感じた。それからは、増々スーパーの時代が来ていると確信するようになった。しかし、毎月読んでいくうちに、倉本長治氏の思想や、「店は客のためにある」というキャッチフレーズの下、流通革命を起こそうとしている一団が、スーパーの大きなうねりを起こしていることに気付くようになった。その最先端を突っ走る異端児が中内功氏であった。
    当時のキミサワやヤオハンとも取引を始めることが出来た。我が社の看板商品である煮豆を売り込むことが出来た。それでも、何のための商売だろうという自分の内側にある疑念がどうしても消えない。結婚を挟んでのこの一年半は、ある意味迷いの時間だった。



    ・・・次章へつづく。(第九章は、12月3日更新予定!)

  • 15.10.22 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第七章 川上へ上れ】

    祖母は、私が小学校卒業、中学生になる春休みに亡くなりました。私は祖母からたくさんのことを教わったおばあちゃん子だったのでこの時は泣けてしょうがなかったのをはっきり覚えています。
    それほど成績の良い子ではありませんでしたが、無事、高校大学と進級し、1973年慶應義塾大学経済学部卒業。夢に見た商社に就職。「日綿実業株式会社」という古めかしい社名で、私は、木材本部米材課という部署に配属され、北米から丸太や製材を輸入する東京・大阪・シアトル・それにニュージーランドに一人、合計4事務所に35名ほどのメンバーが張り付いているちょっとしたビッグプロジェクトの一員として下働きをするようになりました。わずか2年の在籍で会社には大きな迷惑だったろうと思いますが、この2年の経験が私の仕事人生に大きな影響を残したのです。何といっても強烈な印象は、木材本部長「日比野哲三氏」の存在でした。私の退社後、この方が社長になられるのですが、この方が日頃から商いの哲学として掲げていた「川上に上れ」という考え方は、未だに私の商品づくりの根本理念となっています。当時、米材のマーケットシェアで三菱商事と争っていたのですが、下位商社ニチメンの戦略は、三菱の日本到着買の反対に、ワシントン州政府の売り出す天然林伐採権を買い取り10年も15年もかけて自前で伐採、自前建設の港から積み出し、10年以上の長期傭船の自前船で日本まで持ってくるという、全リスクしょい込み型のハイリスク構造だったわけです。三菱は、ウェアハウザーという全米最大の木材会社との取組。ですからコスト構造は他人任せのリスク回避型。片や、我が社は、日本到着までの全コスト構造が全部我が社で管理され、徹底してコストダウンされている。売り買いだけでなく、加工に興味を持った兼吉の話も思い出しました。他にもたくさん教わったし、御恩になりました。働く先輩たちはみんな優秀だったし、陰ひなたなく懸命に働いていました。全社で一番の利益を上げていたセクションでした。
    日比野さんとの最後の別れの場面だけはいまだに忘れない。いきなり「給料泥棒。」と一括されました。それもそうです。右も左もわからない小僧を2年間教育し、シアトルへ行けと言ったら辞めるという。今までの給料は捨てたようなものだ。でも、その後「中内功は、私と綿花部の同期入社だ。彼は戦争の後会社に戻らなかったけれど、人生かけた事業であそこまで発展した。この会社を辞めた人間で失敗者はいないと思え。」とオリックスの(当時オリエントリース)宮内氏のことや、いろんな人の話をしてくれた。始業前の早朝、まだ、だれも出社していない時間の二人だけの場面を私は生涯忘れない。


    ・・・次章へつづく。(第八章は、11月12日更新予定!)

  • 15.09.24 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第六章 寛治の少年時代】

    1969年ごろから15年間、煮豆の真空包装は400g・300g・250gと少しずつ包装形態が小さくなりながら、売れ続けた。思えば、この収益が私自身の成長と覚醒のプロセスに時間を与えてくれたのだと思う。煮豆という商品が出来上がるまでの父母の苦労に感謝しなければならない。
     さてこの辺からは、私自身の話だ。私は、兄『裕(ゆたか)』の死以来、かなり細かい記憶まではっきりしている。棒だらで作った「桜でんぶ」、貝の紐や、小女子の佃煮、そして本格的な煮豆の製造など、その場面、場面を思い出す。祖母は、毎晩私を横に寝かせ、山崎の家族のこと、兼吉の生き方のこと、商売の原則のような話、連続講座だったと思う。今でも時々「商売は信用だ。」「錢は先に払え。」「あきんどは、始末はしてもケチはダメ。」などなどの今思い出せば面白い話が沢山ある。祖父兼吉が、売り買いより加工を大事にしたという話は、とても強烈な印象で私の記憶に残っている。第一章で記した内容はほとんど祖母のこの講座の記憶です。
     私はなぜか、いとこからもらった少年伝奇物語を小学校の5・6年生ごろに読み、その中の高杉晋作・坂本竜馬・岩崎弥太郎などの話を随分熱心に読んで感化されてしまう。そしていつの間にか貿易で身を立てたいと考えるようになった。いろいろと気の多い子だったようで、先に記したように、5年生の秋に自分の小遣い位など思って、それほど考えも無く新聞配達なんかも始めた。朝5時起きはつらかった。この時代は、子供にとって夢のある時代だったような気がする。勉強や学校より、社会に興味があったような感じだ。兄「裕」が死んだ無人踏切でその後も、多くの不幸があった。最後は、東北の方から働きに来ていた出稼ぎの女性が、電車にはねられ即死。思い出すのも怖い話だが事故後、飛び散った体を拾い歩く人の姿を見たとき、いつになったらこの踏切に遮断機が付くんだろうと心の底から願いを立てたことがある。そしたら、2年もしないうちに警報が鳴る踏切になり、それから2年もしないうちに自動遮断機が付いた。この時代、少年には、余りにも惨めと感じる日常の矛盾を真剣に解決している大人と社会の進歩がとても頼りがいがあり、力強く感じることが出来ました。願いは、努力によって必ず実現できると素直に思える時代だったのかもしれません。


    ・・・次章へつづく。(第七章は、10月22日更新予定!)

  • 15.08.13 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第五章 おかず豆の大ヒット】

    営業で煮豆を売りまわっていた親戚の重雄ちゃんが、会社を辞めた。しばらくして自分で卸売の仕事を始めたので、母は何とかうちの製品を売ってくれないか頼みに行った。そしたら「奥さん、今こんな製品がミニヒットしているよ。」これがヤマザキの最大のヒット商品おかず豆のきっかけである。これは、当時余っていたインゲン豆の一種「前川金時」を加圧釜で茹でて、しょうゆ味で仕上げたものでBRIX32度位の低糖度に醤油味がするという製品で、山梨県を中心に大ヒットした。祖母「きん」が亡くなった翌年のことだ。
     その翌年東京オリンピック。作っても作っても間に合わないくらいよく売れた。毎日2トン~3トン、一斗炊き(製品で35キロくらい)の籠を使って手作業で炊くのだからたまらない、夕方にはくたくたになる。全販売の7割がたがおかず豆だったと思う。2年、3年して販路が固定してくると、何と不思議なことに、創業の人「兼吉」が天秤棒で商いに向かった、鰍沢周辺で一番消費が多かったのです。その頃父愛太郎から、商いは長く続けるもの、思いもその場所にこもってくると言われたのを記憶している。
     このヒットで、山梨に特有の販路を残すことが出来た。そしてこのヒットの残り香は、私が、大学卒業頃まで続いていたと思う。この後、高校生の頃に、父の夢だった煮豆の真空包装500gシリーズがヒットする。思えば昔は、大量に煮豆を食べたと思う。一袋500g おかず豆、金時豆、うぐいす豆、三色豆、ついにコンベア式の殺菌ラインを工場に導入する。この頃、今は倒産してしまった内田食品の昆布豆も500g包装で大ヒットしている。このヒットで煮豆屋としてすっかり自信をつけ、末端にそのマークを浸透させるべきと考えた愛太郎は、社名を株式会社ヤマザキと改め、小包装商品でのマーケティングを中心に展開しようと決断する。


    ・・・次章へつづく。

  • 15.07.23 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第四章 「それでもやめない。」】

    消火作業が一段落したころ、母が電話口で銀行相手に叫んでいた風景は忘れることが出来ません。「もう一度お金を出してほしい。」銀行から火事見舞いに見える前に母が支店に電話したのです。
    その日から、赤貧の生活が始まりました。下着も親戚のお古、新しい服は全く買えない。家の米びつにはコメがないという状態も覚えています。母がこんなに強い人だとは思わなかった。富士にあった母の実家は、この時全面的な応援をしてくれて、父の事業を継続できるように、仮の工場の提供や冬休みに入った私たち二人兄弟の居候も引き受けてくれました。仁藤一族の御恩は忘れてはいけない。
     ところが翌年、奇跡が起こる。先ずは、筍缶詰。これに甘辛の味を付けて「あらめ」と炊き合わせ、ポリエチレンの業務用袋にゴム縛り。というまことに単純な商品が売れに売れて。それまで、佃煮感覚だった商品づくりをぐっと家庭の味に近づけて惣菜風で魚市場を中心に販売したのです。そのことで開けつつあった販路に金平ごぼう・ひじきの煮つけ・卯の花など次々と投入。一方で、煮豆が魚市場経由で販売を始めたら、魚屋さんでよく売れて、しかも魚市場は、翌日現金をくれる。ようやく金が回りだした。私も少しでも役に立ちたいと、学校が終わると必ず工場を手伝った。そのうちそれが高じて、うちの近所を120軒、朝の新聞配達をするようになった。2年近く続けて、中学一年で辞めるとき父が「子供の新聞配達は、親も修行だった。」と言われ、良かれと思ったことが迷惑をかけていたんだなと後悔したことを思い出す。この頃も母は、相変わらず気丈で、運転免許を取得し、ライトバンで静岡・浜松・沼津と静岡県中を駆けずり回り、営業、配送、集金全部やっていた。午前中は製造、午後は得意先回りと必死だった。私は学校が終わると母が居眠りしないように、助手席に乗って配達を手伝った。工場の叔母さんたちはよく働いてくださった。女性が活躍するのはこの仕事の宿命か。


    ・・・次章へつづく。(第五章は、8月13日更新予定!)

  • 15.07.02 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第三章 父 愛太郎、母 千 の苦難の人生】

    ここで、復員後の父を主人公とする新たなヤマザキの歴史が始まります。
    この辺からは、父『愛太郎』や母『千』から聞いた話が混ざってきます。なぜか不思議に『兼吉』の遺徳は思いのほかで、祖父と縁のあった人たちが助けてくれて、戦後の混乱の中でもいろんな原料が集まった。昆布と棒だらは、その一例である。昆布は、どうしていいか解らず、ほとんど畑の肥やしに。失敗だったが、棒だらは「桜でんぶ」として商品化できたようだ。このミニヒットは、ご近所の水産加工業の方たちにも少なからず影響を与えたようだ。
    この頃、昭和23年1月、山崎愛太郎は千と結婚。同年11月13日長男『裕』が誕生。まさしく、ハネムーンベイビーだったと聞いた。私は、25年12月23日誕生。弟『宏平』は、28年11月23日誕生。男児3人を授かり、夫婦はとても張り切っていたんだろうと思う。
    昭和29年愛太郎、千の夫婦は、一念発起して「株式会社山崎兼吉商店」を資本金100万円にて設立。これが大きな節目となって、農産原料主体への大転換が、はかられることになる。「種をまける原料の仕事をしよう。」農家から嫁いできた母は、水産原料の将来性に懐疑的だった。これが煮豆を始める契機となった。実は、この夫婦にとって、この直後最大の不幸が襲う。私の2歳年上の兄は7歳で、鉄道事故で即死。特急に兄がはねられた東海道線の踏切は我が家の裏の踏切でした。当時5歳だった私は、その晩から祖母の隣で寝かされて、我が家の歴史を毎晩聞かされることになったのです。
     さて、煮豆は大苦労しました。最初に手を染めた原料は、大正金時と豌豆でした。どうしてもふっくら柔らかく煮えない。ボイラーも無いわけですから「糠へっつい」が熱源でした。かまどの上に乗って、糠を踏むのが少年『寛ちゃん』の仕事でした。襟の後ろから木のひきぬかが入って、背中がかゆくなる仕事でした。何年かの格闘ののち私が8歳~9歳ごろには、それらしい製品が出来るようになりました。
    私が、8歳の頃に父が殺菌煮豆の話をどこかから聞いてきて、設備を始めたのです。石炭の蒸気ボイラーと殺菌タンク・真空包装機・新しい社員さんの雇用、父は張り切っていました。ところが、昭和34年12月19日、石炭ボイラーが過熱。工場を全焼する大火災を発生させてしまいました。真昼の事件でした。これで、全てが終わりだろう。誰もが思いました。


    ・・・次章へつづく。(第四章は、7月23日更新予定!)

  • 15.06.11 創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第二章 事業継承の難しさ】

    祖父の事業は、後継の方針もはっきりしない中で、兼吉の長女『くら』の婿『誠一』が、主体となって事業を切り回すようになる。社会情勢も大戦に向けて複雑化していく中で誠一は、順に事業を転売。この資金を使い朝鮮(今の北朝鮮だったようです。)で水産加工の工場を設立。その間に父は、徴兵、中国戦線従軍。この数年間の資金の出入りで、次々と財産を失い、ここで全くゼロに戻ってしまったようです。
    終戦後も随分と、らちのあかない状況だったようで、新円封鎖など次々と変化に乗り遅れ、看板は残って何もする事の無い状態に。


    ・・・次章へつづく。(第三章は、7月2日更新予定!)