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2016年07月22日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第十一章 仕事と人生は矛盾しない】
 始めた惣菜の仕事が何年も赤字。そんな中で、ときどき私を勇気づけてくれたのは「商業界」「食品商業」といった一連の商業界から出版されている月刊誌だった。結果の出ない事業に対して、自分で自分を奮い起こさないとしぼんでしまいそうだったから、エネルギーをもらいたくてよく読んだ。
2015年12月24日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第十章 惣菜は事業になるのか】
 それから先、父も母も大変な苦労を背負ってくれた。毎朝4:00からの惣菜製造。果たせるかなイトーヨーカドー富士店の和惣菜売り場は、良く売れた。店員さんもとても喜んでくださいました。でも、利益などおぼつかない。何とか会社がつぶれずに持ったのは、父母のおかげである。なぜなら、1958年ごろ本格挑戦が始まった「煮豆真空包装」が10年以上の努力の後、柱の商品として育ち、69年ごろから90年までの苦難の時代を支えていたからである。
2015年12月03日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第九章 料理を商品にする】
 「息子は、スーパーの売り込みをやりたいらしい。」父は、心配してくれて「富士の駅前にイト-ヨーカドーというスーパーが出てくる。これからでも遅くないので、息子さんが売り込みに行ってみたらどうかと、テナントビルオーナーである富士農協の幹部がアドバイスしてくれた。寛治行ってごらんよ。」と言ってくれた。76年5月の話だった。私は、早速煮豆を包装して、イトーヨーカドーの本部へ行った。そこで初めて「料理を商品にする。」という言葉に出会う。
2015年11月12日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第八章 何をして良いかわからない】
 1975年1月、日綿実業株式会社を退職、静岡に戻った。売ればいいのだ。営業するのが大事だ。それはわかっていた。でも何をして良いかわからない。その時の株式会社ヤマザキは従業員総数11名だった。とにかく売るしかないのだ。
2015年10月12日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第七章 川上へ上れ】
 祖母は私が小学校卒業、中学生になる春休みに亡くなりました。私は祖母からたくさんのことを教わったおばあちゃん子だったのでこの時は泣けてしょうがなかったのをはっきり覚えています。
2015年09月24日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第六章 寛治の少年時代】
 1969年ごろから15年間、煮豆の真空包装は400g・300g・250gと少しずつ包装形態が小さくなりながら売れ続けた。思えば、この収益が私自身の成長と覚醒のプロセスに時間を与えてくれたのだと思う。煮豆という商品が出来上がるまでの父母の苦労に感謝しなければならない。
2015年08月13日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第五章 おかず豆の大ヒット】
 営業で煮豆を売りまわっていた親戚の重雄ちゃんが会社を辞めた。しばらくして自分で卸売の仕事を始めたので、母は何とかうちの製品を売ってくれないか頼みに行った。そしたら「奥さん、今こんな製品がミニヒットしているよ」これがヤマザキの最大のヒット商品おかず豆のきっかけである。これは、当時余っていたインゲン豆の一種「前川金時」を加圧釜で茹でて、しょうゆ味で仕上げたものでBRIX32度位の低糖度に醤油味がするという商品で、山梨県を中心に大ヒットした。祖母「きん」が亡くなった翌年のことだ。
2015年07月23日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第四章 「それでもやめない」】
 消火作業が一段落したころ、母が電話口で銀行相手に叫んでいた風景は忘れることが出来ません。「もう一度お金を出して欲しい」銀行から火事見舞いに見える前に母が支店に電話したのです。
2015年07月02日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第三章 父 愛太郎、母 千の苦難の人生】
 ここで、復員後の父を主人公とする新たなヤマザキの歴史が始まります。  この辺からは、父『愛太郎』や母『千』から聞いた話が混ざってきます。なぜか不思議に『兼吉』の遺徳は思いのほかで、祖父と縁のあった人たちが助けてくれて、戦後の混乱の中でもいろんな原料が集まった。昆布と棒だらは、その一例である。昆布は、どうしていいか解らず、ほとんど畑の肥やしに。失敗だったが、棒だらは「桜でんぶ」として商品化できたようだ。このミニヒットは、ご近所の水産加工業の方たちにも少なからず影響を与えたようだ。
2015年06月11日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第二章 事業継承の難しさ】
 祖父の事業は、後継の方針もはっきりしない中で、兼吉の長女『くら』の婿『誠一』が、主体となって事業を切り回すようになる。  社会情勢も大戦に向けて複雑化していく中で誠一は、順に事業を転売。この資金を使い朝鮮(今の北朝鮮だったようです)で水産加工の工場を設立。その間に父は、徴兵、中国戦線従軍。この数年間の資金の出入りで、次々と財産を失い、ここで全くゼロに戻ってしまったようです。
2015年05月20日
創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第一章 ヤマザキの創業】
 126年前、どういうきっかけで創業があったのか。ご紹介したいと思います。  山崎家の私からしますと、曾祖父にあたる山崎惣吉という人は少し商売気のあった人で生活のために天秤棒を担いで魚を売り歩くような、素朴な商売を始めたようです。それが明治23年ごろの話だと家族の言い伝えになっているだけのことです。惣吉の息子兼吉は、船大工の一族の末端にいた血筋から船大工修行もしたようです。
2014年07月16日
生野菜から立ち上げる苦しみ
 ヤマザキの商品づくりの基本姿勢は、生鮮野菜の洗浄・カットから始めて、加熱調理・包装・殺菌・梱包という具合に「ナマ」からすぐ食べられる「料理」までを一気に一工場で処理する独特の管理にある。従い、じゃが芋、牛蒡など原則年に一回しか収穫できない野菜の貯蔵技術が問題になる。(これを私たちは保鮮技術と呼んでいる)これは、長年の体制づくりの努力で乗り切ってきました。
2014年04月18日
筍はアジアの健康食品
 惣菜屋の溜息「筍の季節は、売れ行きが悪いなあ」 40年も昔、実際に煮豆や煮物はその季節は売れなくなりました。静岡では、山で筍、海で鰹やシラス。自然の恵みの食べ物いっぱいで、春から初夏、そのころまで豊かな食生活があったなあ。なんて思い出します。
2014年02月27日
中国雑感
 2月26日、江蘇省徐州市の片田舎での4日の滞在の後、福州に移動。寒々とした北国の灰色がかった風景から、常緑樹繁る緑の風景の中にいます。雨の後の晴天で大気汚染もそれほどひどくなく、気温は20度以上あり南国の解放感を感じています。
2013年07月11日
2013年適地適作
 弊社の原料管理の基本姿勢に「適地適作」という考え方があります。農作物は、その品種によって栽培に最も適した場所を選び、最も適した季節に栽培するのが最も道理にかなっているという考え方で、これをわたくしたちの信念にして原料調達の原則にしてきました。逆の表現では無理な場所で、無理な時期に栽培するから病害も出やすく、農薬も大量に必要になるという考えです。
2013年06月17日
ベトナム訪問
体調を崩し、少し間が空いてしまいました。実は、少し体調が戻った機会をとらえて、弊社のメンマの供給基地であるベトナムとこのプロジェクトのパートナーである台湾の漬物業者さんを訪問して参りました。
2013年01月07日
新年のご挨拶
 新年明けましておめでとう御座います。旧年中は、弊社製品ご愛顧賜り有難うございました。本年も相変わらずのごひいきをお願い申し上げます。
2012年10月23日
旭川工場竣工にあたり感謝
 三年越しの念願でありました旭川工場が完成いたしました。今日ここに至るまで、お客様はもちろん、多くの皆様のお支えが有ったからこそです。この場をお借りして皆様方に心よりの感謝を申し上げます。
2012年08月08日
「料理は社会分業にのるか」
久々の復活にあたり、本稿では我が社の事業目的である「料理を社会分業にする」との一大テーマにつき少し考えてみたいと思います。思えば、私が26歳の5月、怖いもの知らずの青年で、大手スーパーへ売り込みに行ったとき、商品部の窓口で会った同年代の若手バイヤーから「私には余り意味が解らないのですが、我が社の幹部から『料理を商品にする』という考えの理解できる人を探せと言われている」という話を聞いたのです。
2011年06月28日
適地適作
 最近、日本でも中国の大干ばつが報道されるようになってきました。少なくとも、私たちがごぼう栽培などのため通っている江蘇省・安徽省は、かなり激しい干ばつでした。(6月13日~16日巡回)しかし、さすが治水の歴史が長いこの地域だけに灌漑も整備されており、人工的な潅水のおかげで壊滅した畑は全くありませんでした。
2011年05月10日
天候の不安
 毎年のことだが、いまの季節になると本格的な作付けが始まるとともに、作業は順調だろうか、種の発芽状況はどうだろうか、遅霜はないだろうか、と天候が順調であるよう祈るような気持ちになります。また、秋に播いた牛蒡もこれからが本格的な生育時期を迎えるので、これもこの一ヶ月が重要な時期です。
2011年05月02日
大震災からの復興
 3月11日の大地震に続く大津波、特に東北地区の被災された皆様方にお見舞いと、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
2011年03月19日
「筍」は高級野菜
 野菜として食用にされる代表的な筍は、「孟宗竹」で日本にもともとあった竹でないことははっきりしているようです。間違いなく中国沿海州から日本に持ち込まれ、全国に広がったもののようです。ですから日本への定着はそんなに古い時代のことではないと思います。
2011年02月03日
キャベツのルーツは地中海
 アブラナ科の野菜類の歴史については全くの聞きかじりですが、日本人がこれほど沢山の種類の「菜っ葉」を食べるようになったのは実は明治以降のことのようです。結球レタスなども私たちが子供の頃にはこんなに普及していなかった。大根、カブのように地下に結球するアブラナ科と違い、地上に結球するアブラナ科「ザーサイ」に至っては漬物として日本に入ってきてから、お惣菜としてこんなに普及するとは誰も考えていなかった。花蕾(からい)を食べるブロッコリーなども、記憶に新しい野菜です。
2011年01月01日
新春を寿ぎ謹んで新年のご挨拶を申し上げます
 新春を寿ぎ謹んで新年のご挨拶を申し上げます。旧年中は、弊社製品をご愛顧下さり感謝申し上げます。本年も相変わらずのお引き立てを賜りますよう御願い致します。
2010年12月29日
「適地適作」と「かぼちゃ」
 「地産地消」もまた良い考えですが、我が社の信念は「適地適作」です。
2010年11月25日
かぼちゃとの格闘
 いつの間にか、カボチャは世界を駆け巡るようになりました。ハウス栽培などから始まり、日本の南から北へ走り抜けていたカボチャはいつの間にか地球規模で適地適作を確立し、日本からニュージーランド・メキシコと一年中、生鮮が手に入る野菜へと変身しました。日本は今、冬を迎えようとしていますが、ニュージーランドはこれから夏になろうとしています。この地球の気候変化を利用すると、カボチャは燃料の無駄などして施設で作らなくても年中生が手に入るようになりました。また保鮮技術の進歩で、冬至のカボチャも生から煮あげられるようになりました。
2010年10月19日
丹波の黒豆
 豆類の収穫の季節がやってきました。
2010年09月16日
野菜が高い
 全国各地から天候不順による野菜の不作が伝えられ、市場への出荷量も大幅に減少するものが出て市場相場も歴史上無かったような高値が続いています。もちろん私たちの原材料とて同様であり、この状況を必死の工夫で乗り切ろうとしています。現況の中から我が社の中心的原料である北海道のジャガイモについて収穫の速報をさせていただきます。
2010年05月14日
じゃがいもの産地
 5月12日に名寄、13日常呂(トコロ)と産地訪問をしています。
2010年05月08日
黒豆ブーム
 3月29日「寿命を延ばすワザ百科春スペシャル」というテレビ番組で「黒豆でやせる」という報道をしてくださり、翌日から黒豆の煮豆は店頭から消えるほどの勢いで飛ぶように売れました。