創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第七章 川上へ上れ】
祖母は私が小学校卒業、中学生になる春休みに亡くなりました。私は祖母からたくさんのことを教わったおばあちゃん子だったのでこの時は泣けてしょうがなかったのをはっきり覚えています。
それほど成績の良い子ではありませんでしたが、無事、高校大学と進級し、1973年慶應義塾大学経済学部卒業。夢に見た商社に就職。「日綿実業株式会社」という古めかしい社名で、私は、木材本部米材課という部署に配属され、北米から丸太や製材を輸入する東京・大阪・シアトル・それにニュージーランドに一人、合計4事務所に35名ほどのメンバーが張り付いているちょっとしたビッグプロジェクトの一員として下働きをするようになりました。
わずか2年の在籍で会社には大きな迷惑だったろうと思いますが、この2年の経験が私の仕事人生に大きな影響を残したのです。何といっても強烈な印象は、木材本部長「日比野哲三氏」の存在でした。私の退社後、この方が社長になられるのですが、この方が日頃から商いの哲学として掲げていた「川上に上れ」という考え方は、未だに私の商品づくりの根本理念となっています。
当時、米材のマーケットシェアで三菱商事と争っていたのですが、下位商社ニチメンの戦略は、三菱商事の日本到着買とは反対に、ワシントン州政府の売り出す天然林伐採権を買い取り10年も15年もかけて自前で伐採、自前建設の港から積み出し、10年以上の長期傭船の自前船で日本まで持ってくるという、全リスク背負い込み型のハイリスク構造だったわけです。
三菱商事は、ウェアハウザーという全米最大の木材会社との取組。ですからコスト構造は他人任せのリスク回避型。片や、我が社は、日本到着までの全コスト構造が全部我が社で管理され、徹底してコストダウンされている。売り買いだけでなく、加工に興味を持った兼吉の話も思い出しました。他にもたくさん教わったし、御恩になりました。働く先輩たちはみんな優秀だったし、陰ひなたなく懸命に働いていました。全社で一番の利益を上げていたセクションでした。
日比野さんとの最後の別れの場面だけはいまだに忘れない。いきなり「給料泥棒」と一括されました。それもそうです。右も左もわからない小僧を2年間教育し、シアトルへ行けと言ったら辞めるという。今までの給料は捨てたようなものだ。でも、その後「中内功は、私と綿花部の同期入社だ。彼は戦争の後会社に戻らなかったけれど、人生かけた事業であそこまで発展した。この会社を辞めた人間で失敗者はいないと思え。」とオリックスの(当時オリエントリース)宮内氏のことや、いろんな人の話をしてくれた。始業前の早朝、まだ、だれも出社していない時間の二人だけの場面を私は生涯忘れない。
・・・次章へつづく。
それほど成績の良い子ではありませんでしたが、無事、高校大学と進級し、1973年慶應義塾大学経済学部卒業。夢に見た商社に就職。「日綿実業株式会社」という古めかしい社名で、私は、木材本部米材課という部署に配属され、北米から丸太や製材を輸入する東京・大阪・シアトル・それにニュージーランドに一人、合計4事務所に35名ほどのメンバーが張り付いているちょっとしたビッグプロジェクトの一員として下働きをするようになりました。
わずか2年の在籍で会社には大きな迷惑だったろうと思いますが、この2年の経験が私の仕事人生に大きな影響を残したのです。何といっても強烈な印象は、木材本部長「日比野哲三氏」の存在でした。私の退社後、この方が社長になられるのですが、この方が日頃から商いの哲学として掲げていた「川上に上れ」という考え方は、未だに私の商品づくりの根本理念となっています。
当時、米材のマーケットシェアで三菱商事と争っていたのですが、下位商社ニチメンの戦略は、三菱商事の日本到着買とは反対に、ワシントン州政府の売り出す天然林伐採権を買い取り10年も15年もかけて自前で伐採、自前建設の港から積み出し、10年以上の長期傭船の自前船で日本まで持ってくるという、全リスク背負い込み型のハイリスク構造だったわけです。
三菱商事は、ウェアハウザーという全米最大の木材会社との取組。ですからコスト構造は他人任せのリスク回避型。片や、我が社は、日本到着までの全コスト構造が全部我が社で管理され、徹底してコストダウンされている。売り買いだけでなく、加工に興味を持った兼吉の話も思い出しました。他にもたくさん教わったし、御恩になりました。働く先輩たちはみんな優秀だったし、陰ひなたなく懸命に働いていました。全社で一番の利益を上げていたセクションでした。
日比野さんとの最後の別れの場面だけはいまだに忘れない。いきなり「給料泥棒」と一括されました。それもそうです。右も左もわからない小僧を2年間教育し、シアトルへ行けと言ったら辞めるという。今までの給料は捨てたようなものだ。でも、その後「中内功は、私と綿花部の同期入社だ。彼は戦争の後会社に戻らなかったけれど、人生かけた事業であそこまで発展した。この会社を辞めた人間で失敗者はいないと思え。」とオリックスの(当時オリエントリース)宮内氏のことや、いろんな人の話をしてくれた。始業前の早朝、まだ、だれも出社していない時間の二人だけの場面を私は生涯忘れない。
・・・次章へつづく。