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創業125周年記念 ヤマザキの歴史【第十章 惣菜は事業になるのか】


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 それから先、父も母も大変な苦労を背負ってくれた。毎朝4時からの惣菜製造。果たせるかなイトーヨーカドー富士店の和惣菜売り場は、良く売れた。店員さんもとても喜んでくださいました。でも、利益などおぼつかない。何とか会社がつぶれずに持ったのは、父母のおかげである。なぜなら、1958年ごろ本格挑戦が始まった「煮豆真空包装」が10年以上の努力の後、柱の商品として育ち、69年ごろから90年までの苦難の時代を支えていたからである。

 結局、ユニデリの設立に至る1989年まで、惣菜の事業はずうっと赤字だった。そのつなぎ目に「塩ゆで落花生」のヒットが有り、わかめ製品のミニヒットが有り、少しの収益も上がり、1985年の吉田町川尻の用地購入の背景となっていった。

 煮豆の収益に支えられながら、惣菜の努力は営々と続いた。ジャスコやニチイのスーパーの惣菜コーナーの経営も任されてやった。78年セブンーイレブン静岡一号店進出。「店と工場を回線で結ぶ。」との考え方に感じるところが有り、お取引をお願いした。その時、サラダの製造を開始。ポテトサラダを1キロから作り始めたのを覚えている。

 その後セブンーイレブンは不調で店は全然増えない。どうしてよいかわからない。焼鳥屋もやった。餃子もやった。米飯もすしもやった。天ぷらもフライもやった。目くらめっぽうだった。何をしたら良いかわからないので全部やったというのが本当のところだ。だから何をやっても赤字。勿論セブン―イレブンとの取引に至っては1978年から1990年までの12年間赤字が続いた。それもこれも煮豆の収益のおかげで飲み込みつぶれずに済みました。


・・・次章へつづく。